200709

芝草・條辺
2007 / 09 / 18 ( Tue ) 07 : 07       【New】ゴルゴkageショッピング
この間、波乱万丈ドキュメント 俺達はプロ野球選手だった(TBS系)を
ニコニコ動画で発見した。毎年ドラフト会議で生きの良い選手達が入団している。
今年のドラフトは大阪桐蔭高の中田あたりが注目選手か・・・

だが、一方では、約80名ぐらいのプロ野球選手が引退や
戦力外告知を受けて球界を去っていくらしい・・・


当然の事ながら、プロで生き残るという事は非常に限られた人物であるのはいうまでもない。
塚田真季子さんの論文「プロ野球第二の人生」によると非常に細かく調査されていた。

じっくりと読んでみると、、

プロ野球入団から4年目で辞める選手が多いという。。 

その後、一旦落ち着き8年目で再度増加し、、10年、11年が平均して
横ばい状態になり、16年目でいったん落ち着くらしい。

いかに現役選手を継続することが難しいかがわかるだろう。 

引退のピークはプロ入りわずか4年目である。高卒でプロ入りした選手だとおよそ22歳、大卒の場合だとおよそ25歳で職を失うことになる。

戦力外告知・・つまり若干20歳そこそこの若い男がリストラの宣告をされるわけだ。
これはまだましなほうかもしれない。。やり直しはできる年頃だ。
(じょうべの例) 因みに奥さん美人です(w)



だが、中堅どころとなれたとしても、そこで実力を認められなければあっさり首を切られ、
30代後半で仕事を失うことになる。 (芝草宇宙の例)
 


こうなった場合のやり直しがきっついだろう。。

プロ野球選手という特殊な世界で生きてきていきなりポーンと社会に放られても
本人も不安があるだろうし、適用も厳しくなるだろう。

もちろん、それまでに普通の人よりも多い給料だったから貯金も多少はあるだろうが、、
選手時代に派手に使い込んだ人も多いはず。 いや、そうならないのがおかしいかも。。

第2の人生といっても・・コーチや監督・・・これは極わずかな限られた人や人望が厚い選手・・
だが、これも1年で職を失う不安定な職業である。

ましてや、プロ野球選手になる人物は、野球以外の事はまず、失っている人が多いだろう。
それ以外の事を考えてたらプロ野球選手にはなれないわけだから。 

ボロボロになるまでやる・・・・こうなっちゃうんだろうなぁ・・・

うーん。日本のシステムなのか!

アメリカでは、春はバスケ・夏は野球・秋・冬はフットボール・ホッケーとシーズン毎にシフトしていく。
だからこそ、ディオン・サンダースのようなプロ野球+プロのアメフトのようなマルチな選手が生まれる。
また、それができるのもこのようなシステムを受け入れている国柄もあるのかもしれない。

また、プロ野球選手でも中には弁護士の資格・医者の資格・などマルチな人が多い。。

アメリカの文化が許せる事なのか!! 

そんなの卑怯だぞ!

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200709

江夏豊
2007 / 09 / 14 ( Fri ) 09 : 15       【New】ゴルゴkageショッピング

知り合いのブログに江夏の21球についての記事があったので動画を見てみた。

江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、
奈良県生まれ、兵庫県尼崎市園田出身のプロ野球選手(投手)野球解説者。

大阪学院大学高等学校→阪神タイガース→南海ホークス→広島カープ→日本ハムファイターズ→西武ライオンズそして、メジャー挑戦・・・

この男を語ったら切がない・・なぜならば、人間ドラマが多いからだ。

江夏の21球・・・覚せい剤事件、、素行が悪い・・やくざっぽい・・色んな噂があるが、

江夏は本当は心優しい男なのではないだろうか??



以下の記事は、ウィキペディアより抜粋しました。

江夏豊の経歴
高校までは野球の経験はなく、中学時代は砲丸投げの選手として活躍していた
(また江夏は生まれつき右利きながらも野球という競技上、圧倒的に左利きが優遇される為、
長兄の命令で強制的にサウスポーに矯正)

1966年:阪神タイガースへドラフト1位で入団
林コーチに変化球をプロに入って初めて教わる(林のことを「お師匠さん」と呼び慕っている)

1971年のオールスターゲームでは、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空に切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オ

ールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、
これは振り逃げが起こらない限り可能な最高の成績である。

1976年1月、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで南海ホークスへ移籍。
なおこのトレードの際、江夏は交換相手の江本に関し「なぜあんなレベルの選手と(俺が交換させられるのか)」とぼやき、
それを聞いた江本が「言いたい放題言いやがって」と激怒、一触即発の状態に陥った。

後に和解して良い友人となり、後年江夏の刑事裁判において情状陳述をするまでの関係になった。

南海ホークスでは、野村克也選手兼任監督と会った時に、1975年10月1日の広島東洋カープ戦で衣笠祥雄にカウント2-3から意図的に投じたボール球について

「あれはわざと放ったんだろう?」と指摘され、その野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。

野村克也から人間指導を受ける

1977年オフ、野村監督の解任に際して「野村さんがやめる以上出してください」と発言し、金銭トレードで広島へ移籍。



1983年オフ、日本ハムの大沢監督が勇退。「お前をとってきた俺がやめるんだから、お前も日ハムをやめろ!」という大沢の強引な説得により、移籍が決まる。

1985年、公約通りミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加
開幕ロースター入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーリーグとはならなかった。

余談だが、江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・イゲーラは、この年に15勝、翌年は20勝をあげた。
イゲーラが日米野球で来日したとき、服はブランド物、腕には高級時計を身につけており、マイナー時代は普段着でもアンダーシャツを着ており、
ビール1本を買う金すらロクになく江夏の部屋まで飲みに来ていた(江夏は日本球界の最高給投手だった) 男の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いたという。

ちなみにイゲーラ自身もマイナーで江夏と過ごしたことを忘れておらず、来日して、江夏の元に真っ先に駆けつけ握手を求めたという。

引退後は、日本テレビ解説者、東京中日スポーツ評論家を務める傍ら、映画、TVドラマ、バラエティ番組に出演するなど、タレント・俳優としても活動していた。

1993年3月3日、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて懲役2年4ヶ月の実刑判決を受け静岡刑務所(静岡市葵区)に服役
名球会からも自主的に退会した。1995年4月27日、仮釈放。出所後は野球解説者・評論家に復帰し、判りやすく明晰な技術論で高い評判を得ている。


現在はテレビ大阪解説者、デイリースポーツ評論家。選手を「君」付けで呼ぶ野球解説者の走りで、 これは野球選手という職業へのリスペクトからであると本人は語っている。

球界にんげん交遊伝「球人蔵」』を連載中。
マスターズリーグ・東京ドリームスにも在籍し、モルツ球団」にも所属している。

阪神時代に主治医から「今の無茶な生活を続けていれば、間違いなく数年以内に命を落とす。酒、タバコ、女、麻雀、どれかを止めろ」と 言われて酒を断つことを選んだ。

MLBで2度のノーヒッターをマークしている野茂英雄が師匠として慕っている。 

確かに・・・江夏にはドラマがある!!!

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200709

ジャイアント馬場は巨人の選手だった。
2007 / 09 / 05 ( Wed ) 07 : 54       【New】ゴルゴkageショッピング

ジャイアント馬場が元プロ野球選手という事は有名である。

ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、
新潟県三条市出身のプロレスラー。
日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。

本名は馬場 正平(ばば しょうへい) 

↑ジャイアント馬場のフィギュアです。(良く出来てると思います。) 

昭和28年、県立三条実業高校入学。高校でも野球部に入ったものの、馬場に合うスパイクがなかったようです。 幸い、野球部の先生が特別注文のスパイクを作ってくれたそうです。

その先生の勧めでピッチャーに。それも、エースで四番。

高校2年の夏の大会の予選では、地元の新聞が馬場投手を擁する三条実業高校を優勝候補にあげていたくらいでした。
在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。(ウィキペディア)

給料は月5万円だったという。

新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。

長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほど親友であり(プロ入りは馬場のほうが先だが、年齢は長嶋のほうが上)、
長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場。

1960年、巨人を自由契約になり一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。

大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退。

その後、プロレスに転身、元ジャイアンツの選手という事や体が大きかったので
力道山からは、かなり優遇されていたらしい。。一方、アントニオ猪木は、付き人で力道山に殴られたりして苦労してた。

当時、長島、王が3,4千万の年収がある中、馬場は、2億ぐらいの年収だったらしい。

仲間内でマージャンをしてるときに「僕のタバコとってくれるかな?」と言いながら
相手の牌の手を覗いていたという伝説があります。


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200709

ケン・モッカ(パイレーツ→中日→メジャー監督)
2007 / 09 / 01 ( Sat ) 09 : 08       【New】ゴルゴkageショッピング

ランディーバース、クロマティー、、数々の最強外人と言われた中、

僕が尊敬する外人選手の一人、ケン・モッカがいる。

ケン・モッカ(Kenneth Edward Macha, 1950年9月29日 -)は、
アメリカペンシルベニア州出身のプロ野球選手、メジャーリーグ監督。
ピッツバーグ大より1972年のドラフトでパイレーツより、6巡目の指名を受け入団。


パイレーツ時代のケン・モッカ

その後エクスポズ、ブルージェイズを経て、1982年、中日ドラゴンズに入団。
3番サードとして中日在籍4年間のうち、3回3割を越える打率を残し、円熟期の田尾安志・平野謙・谷沢健一・大島康徳・宇野勝・中尾孝義らとともに、 
恐竜打線と呼ばれる打線の一員として活躍する。      


1982年中日優勝の立役者の1人であり、シーズン終盤の読売ジャイアンツとの壮絶なデッドヒートの最中には、中日ナインに「最後まで絶対に諦めるな」と檄を飛ばし続けた。

1985年引退。選手・ファンからも信望が厚く、引退試合では選手から胴上げされた助っ人外人としても有名。今でも中日ファンから最も愛された助っ人外人として度々名前が挙がる。

当時、僕はモッカと上川のサインをもらったが、そのとき、モッカからサインをもらおうと人ごみの中、走ってたら転んでしまったのだが、

モッカは手を貸してくれ、ついでにサインをしてくれたんだぞ!

余談ではあるが、マリナーズのイチローも少年時代に中日で活躍していたモッカからサインをもらっている。

更に、モッカは

乱闘は必ず一番で止めに入った外人選手でもある!

やっぱり、ファンから最も愛された助っ人外人として名前が挙がるのもわかる。

それから数10年が過ぎ、テレビでメジャーを見てたら、、どうも見覚えがある顔がアップで映った・・

そう。あのケン・モッカだったのだ! 


どうもアスレチックスのヘッドコーチをしてたらしい。。 
しかも、それはイチローのメジャーデビューの試合だ。

後で調べると、イチローは試合前にモッカにちゃんと挨拶をしてたらしい。

いや〜〜ダブルの感動だったねぇ〜〜

2003年からオークランド・アスレチックスの監督をつとめる。

3年契約終了後の2005年のオフシーズンには再契約が難航し一時は退団が発表されるが、
その後契約合意がなされ2006年からも指揮をとることとなった。しかし、この年、3年ぶり自身2度目の地区優勝の好成績を上げながら解任された。

この影響で、同年の日米野球ではMLBチームの指揮を取ることが予定されていたが、
レッドソックスのテリー・フランコナ監督に代わると発表された。

2003年にも東京ドームで予定されていたシアトル・マリナーズとのMLB開幕戦がイラク情勢の悪化で中止となってしまったため、結局監督として来日する機会を2度も失ってしまうこととなった。

残念!!もう

実際の発音は「モッカ」というよりは「マッカ」なのだが、「真っ赤」と読まれるのを嫌った球団が本人の同意のもとで「モッカ」と登録。

麻雀を覚えたりしてチームになじんだ。(こういうエピソードは他にも将棋を覚えたランディ・バースのような例もある。)

真弓明信(中日での現役時代、ヒッティングマーチが同一であった)

2003年は新人監督モッカが日本でイチローを先頭バッターとして迎える。
このことについて、2003年3月18日のA'sのwebページに次のような記事が載っていた。

その上でモッカは次のように言っている。

"I think he had a glove with my signature on it, too. But he was making a lot of errors with it, so he stopped using it."
”イチローは、俺のサイン入りグローブを使ってるようだが、エラーが多いと聞くから、そのグラブを使うのを辞めたほうがいいな”


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