200707

江川事件(空白の1日)
2007 / 07 / 31 ( Tue ) 08 : 53       【New】ゴルゴkageショッピング
1955年5月25日栃木県小山市出身。現役時のポジションは投手。
作新学院高校時代に怪物として全国にその名をとどろかせる。

その後、1979年に「空白の一日」を突いて巨人と契約、ドラフト1位で阪神に指名されるも巨人が小林繁とのトレードを発表し正式に獲得。「エガワる」は流行語にもなった。持ち前の速球とカーブで巨人を支えたが、1987年に32歳の若さで引退。(はてなダイアリーより)



江川の痛恨の一撃の内容はこちら

通算成績は135勝72敗、防御率3.02。

引退後はタレント、ワイン評論家としても活躍中。


甲子園の怪物の元祖とも言える人物・・・清原、桑田、松井、松坂・・数々の怪物といわれた選手がいるが、その中で真の怪物と言えるのがこの男、江川でないだろうか。。



2年生夏の大会からで、栃木県大会初戦の大田原高相手にノーヒットノーラン、2回戦の石橋高戦は完全試合、準々決勝の栃木工戦もノーヒットノーラン。準決勝の小山高戦も10回2死までノーヒットノーランだったが、延長11回にスクイズで1点を取られて敗退している。

3年春の甲子園では1回戦の北陽高を19奪三振で完封。2回戦の小倉南高戦では7回10奪三振で無失点勝利。準々決勝の今治西高戦も20奪三振で完封。準決勝の広島商戦の5回・8回に1点ずつを取られ、そのまま敗退。(後に広島の達川がいたチーム)その失点が二年生秋の新チーム結成から練習試合・公式試合含めて初の失点だった。

3年夏の県予選では5試合中3試合がノーヒットノーラン、5試合の被安打2という快投で甲子園出場。1回戦の柳川商戦で延長15回23奪三振で勝利。2回戦の銚子商戦12回裏押し出し四球で敗退。

高校時代の成績は、完全試合2試合、ノーヒットノーラン10回。公式戦の通算防御率は0.41となっている。


この成績から考えても怪物としか思えないですね。


1973(昭和48)年のドラフト会議で阪急ブレーブス(現・オリックス・ブルーウェーブ)にドラフト1位指名されたが、慶応大学へ進学がほぼ内定していたが、何故か試験には不合格・・そして法政大学2部へギリギリ滑り込んでの進学。

だが、その江川の入部に法政大学野球部は戸惑った。いきなり怪物が入部してきたわけで、厳しい上下関係やマスコミなどの狭間で
一時は本気で退部を考えたらしい(本宮ひろし漫画「実録たかされ」より

1977(昭和52)年、東京6大学野球で法政大学のエースとして神宮で大活躍。その年のドラフトの最大の目玉となった「怪物・江川卓投手」は、クラウンライター・ライオンズ(現・西武ライオンズ)から1位指名。



法政大学OBの(当時)クラウン・根本陸夫監督と球団取締役は江川氏の下宿に出向き、指名挨拶を交わすなど、江川氏獲得に向けて動き出すが、
巨人軍への入団を希望していた江川氏は、後見人(こうけんにん=うしろだてとなって面倒をみる人)に母校作新学院理事長船田中
(ふなだなか)経由で、「九州は遠い」という理由でクラウンへの入団を拒否し、次回のプロ入りまでに2年を要する社会人球団ではなく、作新学院職員の肩書きでアメリカ・南カリフォルニア大学に野球留学する。

この間、クラウン買収に動いていた西武鉄道の堤義明社長は、買収後球団を関東に移すとの条件を出して江川の獲得を図るが、江川はこれを断る。
翌年のドラフト会議前日の1978(昭和53)年11月21日、江川は、船田代議士立会いのもと、巨人と電撃契約を行う。

つまり、クラウンが江川を指名してから1年間は交渉権があるが、翌年のドラフト会議の2日前までしかなく、その1日は法的上、全くのフリーな選手という事で巨人が他の球団に取られたくないという理由で江川と勝手に契約をしてしまった・・・という事だろう。


「球団と指名選手との間の入団交渉期間(優先交渉権)は、ドラフト会議当日から翌年のドラフト会議前々日(2日前)まで」となっている野球協約第138条の盲点をついたこれが空白の1日である。





更に巨人はこの年のドラフトをボイコットする。つまり江川と心中する覚悟を示した。つまり、巨人なくてはプロ野球が成立しないという事を知ってのわがまま行為だったのか、江川がどうしても得とくしたい選手だったのか・・
そのあたりの損得勘定で動いた事なのかもしれない。

その年は巨人不在のまま、ドラフトが開始。


そのドラフトで、ロッテ、近鉄、阪神、南海(現・ダイエー)の4球団が江川を指名、4球団の抽選により、阪神が江川氏との入団交渉権を獲得。

最終的に金子鋭コミッショナーの権限により阪神に江川を一度入団させ、巨人へトレードという形をとった。


その的となったのが当時巨人で活躍してた小林繁投手である。


小林はこれを引き受け阪神へ行った。もちろん、小林も巨人が大好きで頑張ってたわけで。。

トレードが成立して巨人軍の選手となった江川は、記者会見で記者団に対して「みなさん、そう興奮しないで」と発言。

マスコミに叩かれるようになってしまった。。

江川には2ケ月の出場停止処分が下され、1979(昭和54)6月、甲子園球場で阪神タイガースと初対決ラインバックが逆転スリーランを叩き込み江川を粉砕。(上の動画参照)

一方、小林選手は肩を壊して江川氏より1つ若い31歳で引退。通算成績はプロ12年・実働11年で139勝95敗17S、防御率3.18。
沢村賞2回・ベストナイン2回。1992年大阪近鉄バファローズのコーチに就任

江川はタレントして活躍していると同時にワイン評論家としても活動しているらしい。

そろそろ、この事件も時効なのではないだろうかと思う。
野球界を盛り上げる為にも江川はコーチか監督として向かえても良いのではないだろうか。。

その他、プロ野球を沸かせた選手の行方
プロ野球選手のその後:中山(元大洋)
プロ野球選手のその後:新浦(元巨人→大洋)
プロ野球選手のその後:藤王(元中日→日ハム)
プロ野球選手のその後:近藤真市(中日)
プロ野球選手のその後:伊良部秀輝(ロッテ→ヤンキース)

プロ野球選手のその後:板東英二(中日→タレント)
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200707

東海大相模 振り逃げ3ラン2007年
2007 / 07 / 31 ( Tue ) 06 : 01       【New】ゴルゴkageショッピング
夏の予選、横浜VS東海大相模の試合で「振り逃げ3ラン」という奇妙な試合があった。その結果、東海大相模が勝って決勝進出したが、、結局、決勝戦では桐光学園が勝利して甲子園出場を果たした。



野球には振り逃げというルールがある。



第3ストライクの投球を捕手が正規に捕球しなかった場合、打者は直ちにアウトにはならず、打者走者となって一塁への進塁を試みることができる。

つまりツーアウト、ツーストライクでバッターが空振りしたがキャッチャーが球を落としたりワンバウンドで捕球した場合に適用されるわけだ。こういうケースは数試合に1回あるかないか、、いや、数試合に1回という割合であると思う。ちょっと僕なりにこのシーンをまとめてみた。

1.東海大相模のバッターがツーアウト、ツーストライクで空振りした。

2.横浜のキャッチャーは累審を確認し空振りをアピール(空振りしたか微妙なので・・)

3.主審は空振りの宣告をファーストの累審に委ねた(空振りの確認をするため)

4.ファーストの累審は「空振りの宣告」

ここだ!事件はこの後に起きた!

今回はキャッチャーがワンバウンドで捕球したが、ボールはキャッチャーが持っているので普通なら何気なくキャッチャーがバッターにタッチをして終るはず。。だが、キャッチャーは何も気にせず、、いや、他の守備の連中も普通の三振だと思い込みベンチへ下がってしまった。。しかも全員だ。

この盲点を東海大相模は容赦なく突いてきた。

本来プロならば、当然珍プレーとして扱われてしまいそうな内容だが、高校野球の予選。。

そして横浜のナインは、それに気づかず、、、いいや、後から「しまった・・振り逃げだった・・」と気づいた選手もいたと思う。
東海大相模のバッターがベースを走る。そんときに一人だけボールを持ってタッチするにもそんな雰囲気ではない。

不運としか言いようが無い。高校生にしては厳しい判定をくださなければいけない状況になってしまった。。。主審もアウトを宣告してるが、実際にこんな場面までは想定できないだろう。。

野球をしててこの振り逃げというルールがあるのはおかしいと思う人も多いだろう。だが、この振り逃げというルールが無かったら野球ではないわけです。
野球のルールのつじつまが合わなくなってしまうからだそうだ。

そもそも三振とは空振りを3回した場合の事を言います。その空振りの定義は
「バッターが空を切り、そして捕手がしっかりとキャッチする」これで三振が成立するわけです。

もし、キャッチャーがボールを落としたりワンバウンドでキャッチしたらそれは正規な三振ではないわけ。

で、振り逃げというのはツーアウト、ツーストライク以降じゃないと駄目です。ワンアウト、ワンストライクで適用してしまうと、わざとキャッチャーがボールを落としたりしてゲッツーを狙えてしまうからです。

どんなスポーツにも盲点は必ずあるのだが、今回はその盲点が大事な場面であからさまに現れた内容だったと思う。

そしてこの東海大相模の監督(極楽とんぼのY本に少し似ている)は、この状況で冷静に選手に指示をしたと思う。歳はこう見えて37歳だという。余談ではあるが、このバッターは原辰徳の甥(おい)だそうだ。
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200707

板東英二(中日→タレント)
2007 / 07 / 27 ( Fri ) 09 : 09       【New】ゴルゴkageショッピング
板東 英二ってタレントのイメージjが凄く強いが実は元プロ野球選手であることは最近の若い世代ではあまり知られてない。

板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は旧満州国(現在の中国東北部)生まれ




asahi.comの記事
によると、徳島商高で投手として甲子園に出場し、板東はこのとき徳島商高のエースとして投げ18回引き分け再試合が初めて適用されるきっかけを作ったらしい。当大会で83個の奪三振記録(現在もまだ破られてない)

今じゃ考えられないですね。。

1959年(昭和34年)に中日に入団し77勝の勝ち星を挙げたが、故障により昭和44年頃に引退した。

その後スカウトを経て昭和49年頃から関西ローカルのメインの司会を担当した。これがタレントとしての活動の第一歩でもあり元プロ野球選手がテレビの司会をするのは初のではないだろうか。

現在もプロ野球→テレビ司会者への転身は僕が知る限りではこの板東しかいないでしょう。


色々調べていくと、82年の中日ドラゴンズの歌「燃えよドラゴンズ82年版)の歌手もやってようだ。



1982年(昭和57年)

曲名 燃えよドラゴンズ!
歌手 板東英二
作詞 作曲 山本正之
編曲 神保正明

歌詞はこちら>>
昔良く歌ったよ。。これがまさか板東が歌ってたとは、意外でした。

また、TBS「毎度おさわがせします」(1985年放映)にもエロいおやじ役として登場していたと思う。

とにかく弁が達者なのはテレビを見てても良くわかる。その持ち前の弁を活かし講演会も開いたり、本を書いたりバラエティー番組の司会、映画など多方面で活躍中、スターダストプロモーションに業務委託している芸能事務所オフィスメイワークに所属し、同社社長でもあるし、タレント業もさることながら、自身(の事務所メイワーク)が運営するECサイト「板東商店.com」や、テレビ・プラス社との共同事業で運営するこだわりの食材ECサイト美味!ニッポンなどを手がけるなど、手広く事業を行っている

「板東英二の梅干」なども発売しちゃってるし・・・

金の亡者なのか??

その他、プロ野球を沸かせた選手の行方
プロ野球選手のその後:中山(元大洋)
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200707

伊良部秀輝(ロッテ→ヤンキース→阪神)
2007 / 07 / 18 ( Wed ) 03 : 15       【New】ゴルゴkageショッピング
伊良部 秀輝(いらぶ ひでき、1969年5月5日)

沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ、兵庫県尼崎市出身
1987年のドラフトでロッテから1位指名されて入団。1年目から1軍のマウンドを経験。

当時日本最速158KMを投げる事で話題になった選手でもある。

1993年日本ハムの大沢啓二監督(当時)がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、いてて・・・」と言ったことから「伊良部クラゲ」の異名がついたらしい。(ウィキペディア)
「ストッパー毒島」でも「クラゲ!」と呼ばれる場面もあった。

20070718031501


まぁ・・・この人は色々と話題になった選手でした。ロッテである程度の活躍をしていたが当時、FAの権利もないのにメジャーへ移籍を希望。

それもヤンキースじゃなきゃ嫌だって・・・当時はポスティングシステムもない時代・・
考えてみたら彼のわがままが発端で後にイチローや松井、松坂が容易に移籍できたのかもしれない。

良く調べると一度パドレスへ入団しそれからトレードという形でヤンキースへ入団した。

まるで江川の空白の1日を思わせるようなスタートでした。

アメリカでは素行が悪い事で有名だった・・・観客につばを吐くなど。
その後、エクスポズ、レンジャーズへトレードされ2002年に阪神タイガーズへ移籍。

2005年に引退しました。

マスコミからは叩かれファンに誤解を与えることで有名だったが、野球に関しては非常に理論派であり、良く考えていると言われてる。

また、後輩や友人にも親身になって接し実は非常に面白い男だという。元、阪神→中日の久慈と仲が良く久慈は伊良部をかなり絶賛している。(久慈のブログより

そんな伊良部ではありますが、今はロサンゼルスでSuper Udonのチェーン店を開業。僕が知る限りでは2店舗(ガーディナ地区、ホーソン地区)に開店した。そのうちホーソン地区は売却したらしい(2007年7月現在)

知人の証言によるとガーディナ地区で伊良部がキッチンでメキシコ人を使って一生懸命働いてたらしい。

実際に僕もSuper Udonに行った(ガーディナ地区)場所がちょっと怪しげなところでした。テラスが設けてありそこでウドンを食べましたが、トイレが近くにあり衛生面でちょっと・・・って感じもしたが、味はそこそこだった。そのとき、キッチンも覗いたが伊良部はいなかったです。

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200707

近藤真市(中日)
2007 / 07 / 17 ( Tue ) 03 : 20       【New】ゴルゴkageショッピング
近藤 真市(こんどう しんいち)

享栄高からドラフト1位で1986年中日ドラゴンズへ入団
元々は近藤真一だったが、名前を「真一」から「真市」に変更した。

享栄高で長谷部裕(元中日捕手、現コーチ。ドラフト5位で同時入団)とバッテリーを組み、1986年には春、夏ともに甲子園に出場。その年のドラフトで5球団と競合の結果、就任直後の星野仙一監督がクジを引き当て、1位指名で中日に入団。

近藤のデビューは派手すぎた。




プロ入り1年目の1987年8月9日の対巨人戦(ナゴヤ球場)に先発登板し、プロ野球史上初の快挙となる初登板・初先発ノーヒットノーランを達成し、野球ファンの度肝を抜いた。因みに最後のバッターは篠塚だった。。




その後も初登板から3試合連続で勝利を挙げ、8月の月間MVPを受賞。
18歳11ヵ月での月間MVPは史上最年少記録。そのシーズンは4勝(3完封)。

1989年に左肩を手術、1990年に復活登板を果たしたが、1991年のオフに今度は左ヒジを手術。結局、1989年以降は勝利を挙げることができず、1994年のシーズンを最後に現役を引退。

2004年途中から鈴木孝政(当時1軍コーチ)と入れ替わりで1軍コーチに昇格!!

僕の近藤真一の記憶・・・
僕の記憶を辿るとこの近藤は高校時代はピッチャーだけでなくバッターとしても良かった。ただ、内野ゴロで1塁ベースまで全力疾走しなかったり、坊主頭が鉄則な高校球児なのに少し角刈りなどして調子に乗ってた一面もあったように思えた。
高校3年の夏の甲子園の真っ最中に部員数名の喫煙が発覚されレギュラー陣が外された。。(それが影響したのか享栄は試合に負けた・・・池田高校だったかな・・・)

プロに入りデビュー戦をノーヒットノーランで飾りその後も完封勝利をした。当時、僕は近藤は伝説のピッチャーとして活躍すると思ってたが、巨人戦だったと思うが山倉に痛恨のホームランを食らったのを見て凄くショックを感じた。




中学のとき、近藤と対戦したことがある人と偶然にも知り合う機会があり彼の証言によると「とにかくデカかった!不良少年が剛速球を投げてたよ・・」(実際は不良かどうかしらないが、見た目が当時そのように思えたらしい。。因みにラッキーな事にそのバッターはヒットを打ったらしく当然ながら未だに酒を飲むと自慢してる)

ドラゴンズに入団後、「星野監督みたいな選手になりたい・・」と言ってたと思う。ある意味、被る部分はあったのではないだろうか。。

因みに藤王康晴、長谷部などは地元が同じである。


1995年からは打撃投手兼スコアラーを務め、1996年からスカウトへ転身した。(あの人は今!で出演してたと思う)

中日の岩瀬に自分がつけてた背番号「13」をプレゼントしたらしい。(ウィキペディアより抜粋)

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