プロ野球選手のその後(馬場)

ジャイアント馬場は巨人の選手だった。
2007 / 09 / 05 ( Wed ) 07 : 54       【New】ゴルゴkageショッピング

ジャイアント馬場が元プロ野球選手という事は有名である。

ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、
新潟県三条市出身のプロレスラー。
日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。

本名は馬場 正平(ばば しょうへい) 

↑ジャイアント馬場のフィギュアです。(良く出来てると思います。) 

昭和28年、県立三条実業高校入学。高校でも野球部に入ったものの、馬場に合うスパイクがなかったようです。 幸い、野球部の先生が特別注文のスパイクを作ってくれたそうです。

その先生の勧めでピッチャーに。それも、エースで四番。

高校2年の夏の大会の予選では、地元の新聞が馬場投手を擁する三条実業高校を優勝候補にあげていたくらいでした。
在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。(ウィキペディア)

給料は月5万円だったという。

新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。

長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほど親友であり(プロ入りは馬場のほうが先だが、年齢は長嶋のほうが上)、
長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場。

1960年、巨人を自由契約になり一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。

大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退。

その後、プロレスに転身、元ジャイアンツの選手という事や体が大きかったので
力道山からは、かなり優遇されていたらしい。。一方、アントニオ猪木は、付き人で力道山に殴られたりして苦労してた。

当時、長島、王が3,4千万の年収がある中、馬場は、2億ぐらいの年収だったらしい。

仲間内でマージャンをしてるときに「僕のタバコとってくれるかな?」と言いながら
相手の牌の手を覗いていたという伝説があります。


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